第4章 気高き大物
電話を切ったあと、南雲玲奈は香澄に付き添って、そのまま遊びを続けた。江口里奈のことなど、すっかり頭の外へ追いやって。
だが、その日の午後。
香澄の調子は、どうにも上向かなかった。
気分もどこか沈みがちで、江口里奈のせいなのか、それとも別の理由なのか、玲奈にも判然としない。
翌朝になっても同じだった。
南雲玲奈が訓練をしてみても、目に見える変化はない。
こんな重苦しい空気の中に閉じこもっていては、香澄の回復にいいはずがない。そう判断した玲奈は、思い切って彼女を外の遊園地へ連れ出した。
たとえ娘が自閉症でも、玲奈にとっては普通の子と何ひとつ変わらない。
童話めいた楽しさに満ちた場所。
しかも同い年くらいの子どもたちがたくさんいる。
香澄にとって、きっと何かしらいい刺激になるはずだった。
そして実際、香澄はこの場所を気に入った。
とりわけテーマパークのピンクのキツネと紫のウサギを見つけた途端、ぴたりと足を止めてしまうほどに。
南雲玲奈はチケットを買い、香澄を連れて「森のトレジャーハント」へ向かった。
園内には、アニメの森を模したエリアがある。
音楽や、あちこちに隠された手がかりを頼りに、宝物を探していく体験型のアクティビティだ。
香澄の行動力と考える力を伸ばしたくて、玲奈はそれを選んだ。
ほどなくして、母娘は中へ入る。
最初のうち、香澄は見慣れない環境におびえていた。
けれど、玲奈が根気よく寄り添っていくうちに、少しずつ警戒を解き、前向きな様子を見せ始めた。
南雲玲奈も、徐々に手を離していく。
香澄が自分で手がかりを探せるよう、少し距離を取りつつ、離れすぎない位置から見守った。
お城の中には、ほかの子どもたちもいた。
そのうち同年代くらいの女の子が二人、まるでお人形みたいに整った香澄の顔立ちに目を留め、すっかり気に入ったらしい。
自分から駆け寄ってきて、にこにこと話しかけた。
「ねえ、一緒に探そ? 手がかり見つけたら、ぜんぶあげてもいいよ!」
「かわいい~。お名前なんていうの? お友だちになってくれる?」
「……」
香澄は最初こそ少しこわがっていた。
それでも時間が経つにつれ、二人に悪意がないとわかると、だんだん受け入れるようになっていく。
その様子を見た南雲玲奈は、あえて止めなかった。
この二人は、まるで小さな天使みたいだった。
中島美奈の意地の悪い息子とは、まるで正反対だ。
しかも彼女たちに引っぱられるようにして、香澄は手がかりを探すスピードまで上がっていった。
そんな折、新しいステージの手がかりが現れた。
ただし、それは少し高い場所に置かれていて、ロープ付きの遊具を登らなければ取れない位置にある。
先に二人の女の子が、えっちらおっちら器用によじ登っていった。
次は香澄の番。
南雲玲奈は、どうしても緊張してしまう。
高さ自体はそれほどでもないし、下にはエアマットも敷かれている。
それでも――もし落ちたらと思うと、やはり怖い。
そのとき、少し離れた場所に、一人のひときわ気品ある男がすらりと立ち、この方角を見ていた。
高く通った鼻梁には、金縁の眼鏡。
両端から垂れるグラスチェーン。
レンズ越しの瞳は、細く、深く、静かで、まるで夜空のようだった。
白いシャツに黒のスラックス、さらに黒のロングコート。
手首には繊細な数珠のブレスレット。
禁欲的で凛とした空気をまとい、どこか日常から離れたような気配がある。
男は微動だにせず、ただ立っているだけで、他人を寄せつけない空気を作り出していた。
その傍らに控える秘書――西野亮平は、そんな光景にすでに慣れきっている。
彼の社長は、患者への心理カウンセリングを終えるたび、よくこうした場所を訪れるのだ。
患者の背負ってきた過去があまりに暗いからこそ、こういう子どもらしい空気に触れることで、少しでも心を和らげようとしているらしい。
しかも、ここへ来るのはこれで3日連続。
当然ながら、周囲の注目も日に日に増していた。
実際、近くには何人もの若い女の子たちが集まり、ちらちらとこちらをうかがっている。
「やばい、めっちゃかっこいい……! 連絡先聞きに行きたいけど、怖くて無理。3日連続で来てるよね?」
「先月、2週間待っても会えなかったのに、やっと見られた……! どこの大物? それとも名家の御曹司?」
「このオーラ、絶対ふつうの人じゃないよね。誰か近づけないのかな。写真撮って友だちに見せたい。これが本物の“次元が違うイケメン”だって教えてあげたいんだけど」
「無理無理。ああいう人って、遠くから拝むだけの存在でしょ。高望みしちゃだめだって。見て、近くに護衛っぽい人もいるし」
「……」
西野亮平は黙ってそれを聞きながら、内心で感心していた。
この子たち、案外きちんとわきまえている。
実際、彼の社長の格というものは、そう簡単に誰もが夢見ていいようなものではない。
だからこそ、相手が節度を守っている以上、西野亮平もあえて何もする必要はなかった。
ただ静かに控え、邪魔をしない。
そんな中、今、社長の視線は少し離れたところにいる小さな女の子へ向けられていた。
西野亮平もつられて目を向ける。
そして、わずかに首をかしげた。
今日はずっと、あのお団子頭の子を見ている。
何か気になる点でもあるのだろうか。
その頃、香澄は二人の女の子に励まされながら、ロープへ手をかけていた。
動きは決して器用ではない。
それでも、ひとつひとつ確かめるように、安定して登っていく。
それを見て、南雲玲奈もようやく少し肩の力を抜いた。
ちょうどそのとき。
すぐ近くで別の子どもが転び、痛かったのか今にも泣き出しそうになった。
距離が近かったため、玲奈はつい気を取られ、とっさにその子を支えてしまう。
ほんの一瞬のことだった。
だが、そのわずかな隙に――香澄の足が滑った。
ふっと身体が宙を離れ、そのまま半空から落ちる。
「――あっ、危ない!」
西野亮平が反射的に叫ぶ。
だが、その声より早く。
隣にいた男はすでに駆け出していた。
長い脚で一気に距離を詰め、落ちてきた柔らかな小さな身体を、危なげなく腕の中に受け止める。
香澄の顔はさっと青ざめ、まだ恐怖の余韻に震えていた。
男はそっと彼女を抱えたまま、静かな声で告げる。
「大丈夫。怖がらなくていい」
冷ややかな声音。
氷のような冷たさを帯びた、ひやりとした距離感を含んでいる。
それなのに不思議と、胸を落ち着かせる温かさがあった。
香澄はすうっと怯えを和らげ、黒く大きな瞳で目の前の人をじっと見上げる。
おずおずとしているのに、どこまでも素直で、ひどく愛らしい。
男は表情ひとつ変えず、香澄をゆっくり地面へ下ろした。
ついでのような自然さで、上にあった手がかりカードを取って彼女へ手渡す。
そして、淡々と言い添える。
「次からは、気をつけなさい」
その瞬間になってようやく、南雲玲奈は何が起きたのかを理解した。
血の気が引く。
心臓がひゅっと凍りつき、魂が飛び出しそうになる。
彼女は真っ青な顔のまま、香澄のもとへ一目散に駆け出した。
